たちばな甲冑工房

ちゃんと甲冑師がいらっしゃるんですね。


たちばな甲冑工房
〒976-0042 福島県相馬市中村字北町22

以下は、相双生活からの引用

但し、<毎日新聞 2008年6月3日 地方版>から引用したもののようです

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◇「先人の影」追いかけ40年−−
相馬市中村で「たちばな甲冑(かっちゅう)工房」を営む甲冑師・橘斌さん(64)

鎧(よろい)姿の騎馬武者が駆ける伝統行事「相馬野馬追」。
出陣の舞台となる相馬市中村の中村城址(じょうし)近くに、
「たちばな甲冑(かっちゅう)工房」はある。

主(あるじ)の橘斌(さとし)さんは、
約50年のキャリアを誇る甲冑師だ。

昼夜を分かたず甲冑に向かい、
時折手を休めキセルで煙を吐く姿は、昔ながらの職人を思わせる。

甲冑は鎧と兜(かぶと)の総称で、一領は約1万点の部品から成る。
一つ一つが手作りで、鍛冶(かじ)、組み紐(ひも)、彫金、染め付け、漆塗り……
と膨大な工程があり、制作に3年以上かかる。
「手間がかかるからこそ思い入れも強い。子供のようなもんだね」と目を細める。

祖父の代から続く工房の長男だが、後を継ぐ気はなかった。
「子供のころの夢は天文学者。毎日、望遠鏡で星を眺めていた」。

高校卒業後、横浜の町工場に就職したが、10カ月ほどで体調を崩し実家に戻った。

父薫さんの薦めで京都の映画小道具会社に勤めたのが、転機となった。
「外に出て初めて父の仕事のすごさが分かった」。

黒沢明監督の映画「蜘蛛巣城(くものすじょう)」で甲冑の修繕を担当
するなど、
多くの甲冑を目の当たりにしたが、父の作品とは比べるべくもなかった。

1年半ほどで戻り、父に弟子入りしたが、間もなく父は脳出血で他界した。
22歳の時だった。「このままでは看板を継げない」。

父の残した甲冑を見て、独学で少しずつ技術を身につけ、
作業場に寝泊まりする日が続いた。

修繕の仕事をこなしつつ、28歳で初めて新作の依頼を受けた。
「うまくいかなかったら看板を下ろそう」。
3年がかりで完成させた甲冑は依頼主の気に入り、
「この道で食っていく」と決意した。

制作した甲冑はこれまで6領。
1986年には大作「赤糸威大鎧」も復元した。
平安末期の鎧とされるが、棚倉町の都々古別(つつこわけ)神社に
残片がわずかに残るだけ。

松平定信が編纂(へんさん)した図録「集古十種」や全国の類品を参考に、
3年がかりで復元した。現在、会津若松市の県立博物館に収蔵されている。

甲冑師には時代考証も大事」といい、工房には歴史書や軍記、
美術書が並ぶ。新作の構想には最低1年かけるという。

「甲冑は戦場で武士の身を守るとともに、死に装束でもあった。
下手な仕事はできません」

甲冑作りの先行きには不安も感じている。
甲冑師は全国に十数人しか残っていないと言われる。
最近は材料の入手も難しくなった。

「産地の高齢化が進み、漆や絹糸などの材料が国内で手に入らなくなった。
銅一つとっても、不純物が混ざってこそ美しい色合いが出るのだが、
今は電気精錬され純度が極めて高い。
かつての鎧を再現するのは非常に難しい」とこぼす。

父の後を継いで40年が過ぎたが、「技術はまだまだ」と苦笑する。
修繕に出される昔の甲冑を見るたび出来栄えに驚かされ、
夜間の照明もない時代に作られたとは思えない。

「先人たちの影をずっと追いかけてきた。
とても追いつけそうにないけど、死ぬまでに少しでも近づけたら」【関雄輔】

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■人物略歴
1943年相馬市生まれ。
04年地域伝統芸能大賞など受賞多数。妻美奈子さん(62)と2人暮らし。
趣味の謡曲は20代から続け、今も時折、舞台で自慢ののどを披露する。

7月の野馬追には、自身も自ら橘家に代々伝わる甲冑を身につけて出場。
今年で50回目の「出陣」となる。

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毎日新聞 2008年6月3日 地方版----------------------------------------------------ここまでが引用
なんだか橘さんに遭いたくなっちゃいますね(^^