猿面茶室とは?

猿面茶室は、
かつて織田家の居城であった清州城内にあった建物で、
織田有楽斎の好みとされ、
江戸時代となって暫くした1610年に始まった名古屋城築城で移築した際に、
古田織部清洲城内の猿面茶室の一部を利用したとされて
改修した名茶室だといいます。


江戸時代には上使・賓客接待の場にあてられていたとされ
「猿面席」が明治維新以後幾度も変転を経て
如春庵森川勘一郎氏をはじめとした多くご尽力で
昭和24年に名古屋城に復元されました。


ところで、日本三名席とは
 ・ 京都の妙喜庵待庵
 ・ 犬山の織田有楽斎の如庵
 ・ 猿面茶室 (⇒大徳寺の密庵?)
と解説されたりしますが、
今日では大徳寺の「蜜庵」が猿面茶室に変わり入っているようですが、
第二次大戦による消失で戦後に三名席に列せられたということでしょうか。


さらに名古屋市西区浅間町にある
紅葉屋呉服店には気になる記事もありました。


以下に転写

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瑠須庵の前の道は、古くは清洲城から名古屋城を結ぶ清洲街道と呼ばれておりました。
織部は猿面の茶室を一度解体し清洲街道を通って名古屋城まで運びました。
その時織部は、関ヶ原合戦以前からの所縁ある、
この故地に自分が本当に建てたい茶室を構築しました。それが瑠須庵です。

伝承によれば、京都の地で予め材木を用意し、
直に現場で茶室を組み立てられる状態にして、
それを猿面の茶室の材木に紛れるような形で当地に運ばせました。
大名であった織部が何ゆえそこまで警戒する必要があったのでしょうか。
それには訳がありました。
織部が作りたかった茶室とは、ただの茶室にあらず、
教会の側面を持つ茶室でした。そう、古田織部隠れキリシタンだったのです。

慶長十五年から四年後の元和元年、古田織部は家康の命により切腹となりました。
織部亡き後、瑠須庵自体は見つかる事なく明治まで残りましたが
、残念な事に明治四年、キリシタンがまだ公になれない頃、明治政府により壊され、
焼失しました。皮肉にも、宗教が自由になったのは明治六年でした。
時は平成、苦難を乗り越え、瑠須庵は再建されました。

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つまりは、名古屋城の猿面茶室以外にも、
瑠須庵という名のもうひとつの猿面茶室があったということなのでしょうか?

興味深いですね。