総見院の兜

清須市一場に総見院という寺があり、
信長ゆかりの兜を所蔵していると伝えられています。

総見院は、1610年の清須越しで名古屋市に引っ越した
総見寺の跡地にあるといいます。


その総見寺は、wikipediaklから引用すると以下の通り

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初めは伊勢国大島村(=現在の三重県川越町)に西明寺という講寺であった。
1332年(元弘2年、正慶元年)虎關師錬が景陽山神賛寺と改め
後醍醐天皇の勅により官寺となり、後に伊勢国安國寺となった。

天正の頃、廃寺になりかかっていたのを織田信雄
父の菩提を弔うために清洲北市場(=清須市一場)に移し
安土総見寺にならい総見寺と改めた

忠嶽を開祖としたが、忠嶽は虎關を開山と仰ぎ自分は2世となった。

1611年(慶長16年)清洲越しにより名古屋南寺町(=大須3丁目)に移る
その際、虎關は東福寺派であったので、
法系を整えるために改めて忠嶽を開山とした。

開山以来、何人も妙心寺に進住している。
1630年(寛永7年)3月、方丈が消失したが、
1637年(寛永14年)の秋に藩主徳川義直が再建する。

初めは寺領1326石であったが、慶長伊奈備前検地後は300石となる。
1883(明治16年)4月、
宮内省より本堂、庫裏再建のために金25円が下賜される。

本尊は薬師如来坐像。山門は仁王門となっている。

塔頭は初め12院あったが、
江戸時代には光勝院、陽巖院、東林院、江月軒の5箇所に減少し、
その後光勝院のみ残るが、明治維新後に塔頭から直末となっている。

信長公廟が存在するが、
他の墓地は第2次大戦後の土地区画整理事業(戦災復興都市計画)により
平和公園へ移動している。

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清須市一場の総見院からすると、
言ってみれば本家のような総見寺は上記のとおりですが、
そこで同じくwikipedia清洲の総見寺を引くと、

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1644年(正保元年)総見寺3世永吃閩山が
加納姫(亀姫)の養い坊主であった為、
京都に退隠するのを尾張藩徳川義直が慰留し、
総見寺址に隠居所として寺を再興し、
義直が興聖山総見院と名づけ、
尾張徳川藩2代藩主光友が扁額を寄進した。

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1785年(天明5年)柏原織田家より『伝、織田信長焼兜』が奉納される

以下が、上記サイトの内容

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信長が亡くなった本能寺の変の直後、
信長の次男である織田信雄)が本能寺焼跡を捜索させて
探し当てた信長着用の兜といわれ、この兜が総見院に現存する由来が、
その容箱の裏に由緒書として記されている。

これは、天明五年(一七八五)に丹波国柏原城織田家の家老、
生駒・津田両名が、総見院に贈る際に、その伝来経過を裏書きしたものである。

それによると、この兜は、信雄以来、岐阜城主信秀を経て、
信長遺臣・近江国茂加山城主系の小林氏に伝わるなど、
かなり転々として現在に至っていることがわかる。

また、甲冑研究家芳賀実成氏は、
「現在は錆地の状態となっているが、わずかに残る漆片から、
当時は総黒塗りであったことを物語っており、
数ある信長所用と伝える遺品中、時代の合致する希な兜である。」と言っている。

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