茶の湯と猿面茶室

桃山時代に武将の間で流行ったのが「侘び茶の湯」ですが、
江戸時代になると「御数寄屋」の接待として取り入れられています。

かつて清洲城でも茶の湯が営まれていたようですが、
当時は猿面茶室があったと伝えられていて、
1610年(慶長15年)、清洲越しによって名古屋城内に移築され、
上使の接待場に充てられていたといいます。

1872年(明治5年)、残念ながらその茶室は払い下げられ
現在の名古屋市千種区見附町、かつての末森入舟山に移築され、
明治13年になって名古屋博物館、後の愛知県商品陳列館に寄付されて、
さらには鶴舞公園内へと移されたといいます。

外形は、素朴な茅葺屋根で、
内部は四畳半台目、下座床で、茶道口と給仕口を備えていて、
中柱の隣の二枚障子の口の外には広縁を付していたといわれます。

何といっても床柱の節の様子が猿面に似ていたといい、
そこから猿面茶室といわれるようになったようです。

現存していれば貴重な国宝級のものだったといわれますが、
残念ながら昭和20年の名古屋大空襲で焼失しています。


現在の名古屋城に大天守北側に猿面茶室がありますが、
その一角に猿面茶室があり、
春秋の年2回の公開とお茶席が設けられる機会があるといいます。