広島−宮島に「武将コスプレ」甲冑レンタル店

平清盛のブームでもあるのでしょうか?

休日を利用してとということで、
限定的な営業のようですが、広島−宮島に甲冑レンタル店がオープンし、
甲冑を着用しての撮影sじたりして、周囲の注目を集めているといいます。

甲冑の種類は、
 ・平清盛
 ・毛利元就
 ・織田信長
 ・伊達政宗
の4種類から好きな甲冑を着用して記念撮影ができるサービスとか・・。

ファミリーや学生、社会人など、宮島に来る人が多く、
しかも目立つ休日に企画しているようです。

地元のプロ野球広島東洋カープの公認キャラクター「カープ侍」の
甲冑を手掛けるイベント企画やタレント派遣を行う会社が、
1年前からこうした企画を温めてきたとのことです。

もっとも甲冑に使用するのは、
軽量で強固な特徴を持つグラスファイバー素材だといいますから、
[http://d.hatena.ne.jp/trust3711/20120327/1332812460:title=
関ヶ原]のような本物の重さではないようです。

着る時も、衣類の上から着用できるよう着脱を簡易化させ、
子どもから高齢者まで楽しむことができるように簡素さに工夫した様子で、
サイズは、幼児・中学生・大人向けの3タイプ・8人分。

本格的な甲冑好きには、
些か物足りないかもしれないが、
まだ幼いこれから歴史ものに興味を持つ機会作りにはいいかもしれない。

そして着用後は、
設営された陣幕の前や海を背景に持参してご自身のデジカメや携帯電話のカメラで、
自由に撮影できるようです。

既にこのゴールデンウイークも、なんと140組が利用したんだとか…。
1回の着用が2,000円。
案外、女性や子どもの姿が目立つといいます。

今後は内容を変更して、高齢者向けのサービスも検討中とのことで、
平日に営業される日が来るかもしれませんね。

ちなみに、 営業時間は10時〜16時
営業日は土曜・日曜・祝日
<雨天休業>

関ヶ原町役場、歴史民俗資料館など訪問

関ヶ原町役場地域振興課を3月22日に訪問しました。
現在、町おこしとして進めている
甲冑などの取り組みについてお話を伺いました。

既に、21年度から甲冑を作るなどの準備作業を行い、
23年度には甲冑を着るなどの募集も行っています。

関ヶ原町歴史民俗資料館では、
甲冑着付け体験が出来るようです。

清須市にも所縁のある福島正則清洲城主)をはじめ
本田忠勝、井伊直政島津義弘島左近大谷吉継
月ごとに鎧が変わる変わる特別甲冑5000円に加え、
貸出料金が安めの3000円で利用できる一般甲冑も用意されています。

また、これと並行して、関ヶ原北小学校では、
侍大将1500円、足軽1000円で
甲冑武者体験サービスもあります。

平成22年度には、延べ90人が
5000円、3000円の甲冑を着た実績もあります。

ところで、この関ヶ原町の甲冑は日本製のようですが、
他のところに中国製もあるとか…

その甲冑は着ると25kg近くにもなるといいます。

どうやら製作工程などに大きな違いがあり、
形を真似ただけのようです。

その点、関ヶ原の甲冑は正確に提示を再現している甲冑のようで、
最近は結婚式に甲冑を着たいとの希望もあるようですが、
こうした人にも興味の対象となるのかもしれませんね。

あいち戦国姫隊&清洲城武将隊

織田信長豊臣秀吉徳川家康前田利家
多くの戦国武将を輩出した愛知県内には名古屋城おもてなし武将隊がありましたが、
こんどは「あいち戦国姫隊」がついに現代によみがえった6人の姫が武将観光をPR!

戦国武将ゆかりの城、史跡、博物館などの
歴史好きから見た観光資源豊富な愛知県が、
それらを活かした武将観光を推進しています。

また、清須市でも清洲城を中心に新年度新たに
清洲城武将隊を結成するようです。

初陣は、6月2日の織田信長の命日あたりでしょうか?
あるいは、2012年7月7日に竣工する図書館のオープンなのでしょうか?

もっともこうした人たちは役者だったりしますので、
どこかのプロダクションに所属しているようですが・・

さて、どんなPRをしてくれるのでしょうか?
企画力も問われそうですね。

関ヶ原町の甲冑着付け体験

平成22年7月1日より、
関ヶ原町歴史民俗資料館において「甲冑着付け体験」が始まっています。

着付けができる甲冑は、
1) 特別甲冑6領
 ・福島正則
 ・本多忠勝
 ・島津義弘
 ・井伊直政
 ・大谷吉継
 ・島左近
特別甲冑は、月替わりで6領のうち1領が着付けできます。
2)普通甲冑「桶側胴」1領


体験の詳細は以下のとおり
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【期間】  
平成22年7月1日(木)〜平成22年12月26日(日)
※10月16日(土)、17日(日)はイベント使用のため受付できません。

【時間及び定員】 
開館日の午前(10:00より2時間のコース):2名
    午後(13:00より2時間のコース):2名

【対象】 
高校生以上の男女
但し、サイズには制限があり、着付けができないこともあるようです。

【料金】 
着付け体験料は着付けを希望する甲冑によって料金が異なります。
また料金には入館料(大人1名分)が含まれています。
1)特別甲冑 5,350円
2)一般甲冑 3,350円

【申し込み】
着付けは、予約制
着付けを体験したい方は、下記の要領    
1)別紙申込書に必要事項を記入のうえ、メール又は郵送で申し込む
2)申し込み受付後、予約状況を確認し上で、
  予約の可否をメールまたは電話でご連絡します。       
3)着付け当日の際に「黒い足袋」又は「先割れの靴下」をご持参ください。
4)予約日時の10分前程度(午前の場合9時50分頃)に必着  
5)料金の支払いは、着付けの当日窓口で支払う

【その他】
1)着付け体験は当館内で着付けした後は原則自由行動ですが、
  行動できる範囲は当館敷地内及び隣接する陣場野公園のみ。
  また、雨天の場合は館内のみ。       
2)当日お越しいただいた際にトラブルを避けるため、
  免許証等(身分が証明できるもの)のコピーを
  取らせていただいたうえで「鎧甲冑利用規約」に署名が必要です。

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条件的にはなかなか厳しいのかもしれませんが、
貴重な甲冑ですから、当然と言えるでしょう。
出来れば、移動制限をすることなく、甲冑で笹尾山とか行けるとかも・・・。
是非、甲冑姿をカメラに収めたい、という方はお出かけ下さい。

いずれにしても、
一度甲冑を着てみたい人には非常に興味深い取り組みですね。

総見院の兜

清須市一場に総見院という寺があり、
信長ゆかりの兜を所蔵していると伝えられています。

総見院は、1610年の清須越しで名古屋市に引っ越した
総見寺の跡地にあるといいます。


その総見寺は、wikipediaklから引用すると以下の通り

                                                                                  • -

初めは伊勢国大島村(=現在の三重県川越町)に西明寺という講寺であった。
1332年(元弘2年、正慶元年)虎關師錬が景陽山神賛寺と改め
後醍醐天皇の勅により官寺となり、後に伊勢国安國寺となった。

天正の頃、廃寺になりかかっていたのを織田信雄
父の菩提を弔うために清洲北市場(=清須市一場)に移し
安土総見寺にならい総見寺と改めた

忠嶽を開祖としたが、忠嶽は虎關を開山と仰ぎ自分は2世となった。

1611年(慶長16年)清洲越しにより名古屋南寺町(=大須3丁目)に移る
その際、虎關は東福寺派であったので、
法系を整えるために改めて忠嶽を開山とした。

開山以来、何人も妙心寺に進住している。
1630年(寛永7年)3月、方丈が消失したが、
1637年(寛永14年)の秋に藩主徳川義直が再建する。

初めは寺領1326石であったが、慶長伊奈備前検地後は300石となる。
1883(明治16年)4月、
宮内省より本堂、庫裏再建のために金25円が下賜される。

本尊は薬師如来坐像。山門は仁王門となっている。

塔頭は初め12院あったが、
江戸時代には光勝院、陽巖院、東林院、江月軒の5箇所に減少し、
その後光勝院のみ残るが、明治維新後に塔頭から直末となっている。

信長公廟が存在するが、
他の墓地は第2次大戦後の土地区画整理事業(戦災復興都市計画)により
平和公園へ移動している。

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清須市一場の総見院からすると、
言ってみれば本家のような総見寺は上記のとおりですが、
そこで同じくwikipedia清洲の総見寺を引くと、

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1644年(正保元年)総見寺3世永吃閩山が
加納姫(亀姫)の養い坊主であった為、
京都に退隠するのを尾張藩徳川義直が慰留し、
総見寺址に隠居所として寺を再興し、
義直が興聖山総見院と名づけ、
尾張徳川藩2代藩主光友が扁額を寄進した。

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1785年(天明5年)柏原織田家より『伝、織田信長焼兜』が奉納される

以下が、上記サイトの内容

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信長が亡くなった本能寺の変の直後、
信長の次男である織田信雄)が本能寺焼跡を捜索させて
探し当てた信長着用の兜といわれ、この兜が総見院に現存する由来が、
その容箱の裏に由緒書として記されている。

これは、天明五年(一七八五)に丹波国柏原城織田家の家老、
生駒・津田両名が、総見院に贈る際に、その伝来経過を裏書きしたものである。

それによると、この兜は、信雄以来、岐阜城主信秀を経て、
信長遺臣・近江国茂加山城主系の小林氏に伝わるなど、
かなり転々として現在に至っていることがわかる。

また、甲冑研究家芳賀実成氏は、
「現在は錆地の状態となっているが、わずかに残る漆片から、
当時は総黒塗りであったことを物語っており、
数ある信長所用と伝える遺品中、時代の合致する希な兜である。」と言っている。

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猿面茶室とは?

猿面茶室は、
かつて織田家の居城であった清州城内にあった建物で、
織田有楽斎の好みとされ、
江戸時代となって暫くした1610年に始まった名古屋城築城で移築した際に、
古田織部清洲城内の猿面茶室の一部を利用したとされて
改修した名茶室だといいます。


江戸時代には上使・賓客接待の場にあてられていたとされ
「猿面席」が明治維新以後幾度も変転を経て
如春庵森川勘一郎氏をはじめとした多くご尽力で
昭和24年に名古屋城に復元されました。


ところで、日本三名席とは
 ・ 京都の妙喜庵待庵
 ・ 犬山の織田有楽斎の如庵
 ・ 猿面茶室 (⇒大徳寺の密庵?)
と解説されたりしますが、
今日では大徳寺の「蜜庵」が猿面茶室に変わり入っているようですが、
第二次大戦による消失で戦後に三名席に列せられたということでしょうか。


さらに名古屋市西区浅間町にある
紅葉屋呉服店には気になる記事もありました。


以下に転写

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瑠須庵の前の道は、古くは清洲城から名古屋城を結ぶ清洲街道と呼ばれておりました。
織部は猿面の茶室を一度解体し清洲街道を通って名古屋城まで運びました。
その時織部は、関ヶ原合戦以前からの所縁ある、
この故地に自分が本当に建てたい茶室を構築しました。それが瑠須庵です。

伝承によれば、京都の地で予め材木を用意し、
直に現場で茶室を組み立てられる状態にして、
それを猿面の茶室の材木に紛れるような形で当地に運ばせました。
大名であった織部が何ゆえそこまで警戒する必要があったのでしょうか。
それには訳がありました。
織部が作りたかった茶室とは、ただの茶室にあらず、
教会の側面を持つ茶室でした。そう、古田織部隠れキリシタンだったのです。

慶長十五年から四年後の元和元年、古田織部は家康の命により切腹となりました。
織部亡き後、瑠須庵自体は見つかる事なく明治まで残りましたが
、残念な事に明治四年、キリシタンがまだ公になれない頃、明治政府により壊され、
焼失しました。皮肉にも、宗教が自由になったのは明治六年でした。
時は平成、苦難を乗り越え、瑠須庵は再建されました。

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つまりは、名古屋城の猿面茶室以外にも、
瑠須庵という名のもうひとつの猿面茶室があったということなのでしょうか?

興味深いですね。

消防出初式でも甲冑を着る

今日は西春日井広域消防組合と域内関係市町の消防団による
消防出初式清須市総合福祉センターの駐車場で行われました。






そこで清洲城のゆかりの地ということからでしょう
甲冑も御覧とおり着た方が・・・・

全体の数からいうとちょっとさびしい数ですが、
甲冑工房の前でこれが行われたということに意義がありますね。

でも、残念ながら清須市消防団の甲冑姿は取ることが出来ませんでした(^^;