福島正則と清洲城

清須市といえば
織田信長しか思い浮ばない方も多いかもしれませんが、
福島正則 (1561〜1624)も清洲城主として活躍し、
清須市一場には一場福島と言う地名もあるくらいです。

福島正則の略歴は以下の通り。(肖像画wikipediaより)

海部郡美和町に生まれ。
姫路城主だった秀吉に仕え、賤ヶ獄の戦いで一躍名を馳せた。

後に清洲城20万石の城主となります。

また、関ヶ原の合戦では豊臣への忠義の気持ちを思いながらも、
徳川家康に味方して、石高を倍に増やしました。

名古屋城築城にあっては、堀川開削総奉行を務めましたが、
晩年は豊臣秀吉の血縁ということから、
安芸国改易となり、その際潔く開城して、
筋を通した武闘派としても知られています。


ところで、
安芸・備後国城主の際には、厳島の平家納経の華麗な経箱を作ったといわれます。

Wikipediaより(一部抜粋、修正)

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慶長七年(1602)5月、左近衛権少将福島正則が42歳の時、
「平家納経」を納めるべく蔦蒔絵唐櫃(つたまきえからびつ)
を寄進した時に補修して、取り替えたもの。
表紙は松並木に梅花を点じ、見返し絵は、海中に浮かぶ三つの鳥形(しまがた)を配す。
当時としては卓抜(たくばつ)した異様の画風。

美術史学界はこれを俵屋宗達(たわらやそうたつ)(桃山〜江戸初期の絵師)の絵筆と
推定する。金・銀泥を駆使するのが特技で、これを宗達の基準作例に置く。

経文は
宮内大輔(くないたいふ)藤原定信(さだのぶ)(1088-1154)の書風の影響がみえる。
右肩上がりの速い運筆で、後世、写経書風に「片上様(かたあがりよう)」として
流行した。「方便品」・「普門品」が同筆。

定信の子・伊行(これゆき)の筆に擬(ぎ)するが異筆。筆者は不明。

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清須市は平成17年7月7日に旧3町(清洲町、新川町、西枇杷島町)が合併し、
その後に春日町が加わって、今日の清須市となっていますが、
合併前の清洲町時代には、福島正則の居所跡の碑があったといわれますが、
現在は個人宅になってしまっている模様です。

甲冑その1

アルミで甲冑を作るには、その甲冑の型紙を用いるそうです。

もっとも、この型紙が結構な値段するそうです。
何万円とか、何十万円とか・・・・

個人で負担するにはちょっと気になるお値段です。

甲冑工房も今では30人を超えたと伺っていますが、
清須市名古屋市の文化事業などでの応援依頼などに対処するだけでも
時間と労力を要します。

更に金銭面も自前で・・・とは言いにくいですね。

ちなみに、今年も
神奈川県の小田原市
愛知県の犬山市などからも
甲冑工房の様子を見学に訪れたりしています。

こうした交流が進むといいのではないでしょうか。

加藤清正の烏帽子

清須市甲冑工房には再来年の大河ドラマだとも伝えられている
名古屋市中村区所縁の加藤清正の烏帽子も制作されています。

加藤清正は180cm以上の大柄であったといわれますが、
敵を威圧する為、更に目立つ大きな兜としてこれを選んだともいわれています。


清須市からは豊公橋を渡ると、ほど近くに
中村公園があり、その隣に加藤清正の生誕の地と伝えられる
妙行寺名古屋市中村区中村木下屋敷)があります。

その境内には、こんな立派な銅像があります。

熊本では加藤神社もあり、神格化されています。

また、母が日蓮宗を信奉していたことによる
宗教心も厚い清正自身は、いくつもの寺を建立したといわれ、
いずれも「妙」の字が付いています。

茶の湯と猿面茶室

桃山時代に武将の間で流行ったのが「侘び茶の湯」ですが、
江戸時代になると「御数寄屋」の接待として取り入れられています。

かつて清洲城でも茶の湯が営まれていたようですが、
当時は猿面茶室があったと伝えられていて、
1610年(慶長15年)、清洲越しによって名古屋城内に移築され、
上使の接待場に充てられていたといいます。

1872年(明治5年)、残念ながらその茶室は払い下げられ
現在の名古屋市千種区見附町、かつての末森入舟山に移築され、
明治13年になって名古屋博物館、後の愛知県商品陳列館に寄付されて、
さらには鶴舞公園内へと移されたといいます。

外形は、素朴な茅葺屋根で、
内部は四畳半台目、下座床で、茶道口と給仕口を備えていて、
中柱の隣の二枚障子の口の外には広縁を付していたといわれます。

何といっても床柱の節の様子が猿面に似ていたといい、
そこから猿面茶室といわれるようになったようです。

現存していれば貴重な国宝級のものだったといわれますが、
残念ながら昭和20年の名古屋大空襲で焼失しています。


現在の名古屋城に大天守北側に猿面茶室がありますが、
その一角に猿面茶室があり、
春秋の年2回の公開とお茶席が設けられる機会があるといいます。

尾張国清須住の職人たち

かつての清須には尾張の中心として栄えたことから
甲冑師や刀工・鍔工などがいました。

刀工では、
若狭守氏房・・・関七流の祖、善定家の善済兼房の三男として
            天文三年岐阜に生まれ、京三郎という
            永禄13年若狭守を授領
            織田信長の抱え鍛冶となり、清須、安土に追従
            信長が斃れた後、岐阜、清須に転住
            刀・短刀に優れ、尾張新刀というべき存在

飛騨守氏房・・・若狭守の子で、信長の臣
            天正16年22歳で清須に戻り、
            鍛冶業を収め、天正20年に飛騨守を授かる    
            慶長15年以降名古屋に移住

・ 信高(のぶたか)・・・三河弥兼国の末流兼高の子として美濃国に生まれ、
            河村左衛門という。
            天正年間に清須鍛冶屋町左門屋敷に移り、
            信長の信を賜り、信高と改める
            伯耆国を授領するも天正9年説、同20年説あり
            慶長15年名古屋に移住
            刀・短刀・槍は極めて少なく、
            脇差に優れたものがある

・ 政常(まさつね)・・・奈良太郎兼常の次男として美濃国に生まれ、佐助と称した
            永禄16年小牧に移住し、刀工銘は兼常
            池田輝政に仕えて、一字を貰い政常と改める
            後に、福島正則の召に応じて清須兼常町に移る
            一旦入道したものの、二代目政常の早逝で
            再び鍛刀に従事し、相模守政常入道と銘を切る
            慶長15年名古屋に移り、尾張徳川家に仕える
            槍・小刀に優れる

・ 寿命(としなが)・・・祥兆銘として珍重される
            初代岩捲寿命は美濃国関から清須鍛冶屋町
            に移住、その後名古屋に転任

の名が有名ですが、現在の清洲城には1振りがあるだけだといいます。
ちょっと残念ですね。。。

初代信高、飛騨守氏房、相模守政常尾張三傑と言われたといいます。

せめて3振りはそろえてもらいたいですね。

2011年10月9日、甲冑で歩く「信長時代行列」

甲冑工房が活発に活動が行われるには、
それなりの理由もあったようです。

清洲町時代には土木事業などが十分に行われていなかった割に
現在の清洲城の建設やお祭りなどに力が入っていたようです。


中でも織田信長を中心にした時代行列は
甲冑なども外部事業者から借りるなどして
1000万円ほどの予算が掛かっていたと伝え聞いています。



しかし財政が一段と厳しかったこともあり、
時の町長が傲慢さなどを理由に、三選を果たせずに
共産党系町長が誕生したことを契機に一時中断しました。


そこで、住民有志が、
お金がないなら力を貸そうというので
甲冑を作って、それを参加者に着せようということになり、
甲冑師の指導を仰ぎ甲冑工房の活動が始まったと聞きます。


その甲斐あって、住民の関心も大きくなったようです。
もちろん合併して、一時的な要因として
旧の他町に対して関心を呼んでいることはありますが、
そこを承知で、今後の旧町間の結びつきを
どのように強めていけるのかにかかっています。

清須のアルミ甲冑

本職の甲冑師は全国的には多くないようです。

時代劇やテーマパークなどで甲冑を用いることはあっても、
イベントや結婚式などのような一時的な利用者はいても
日常的に個人が甲冑を着ることはありませんね(^^

ところで、下の2作品の違いはお分かりでしょうか?

それでも地域の魅力を発信することは
街づくりの観点からも重要な要素となっていますが、
残念ながら、清須市には認識が不足しているようです。

職員の中にも歴史に詳しい職員はいないようです頂いています。

上の甲冑は、その会員の作品。